日本の城

日本の城。高い石垣や深い堀に囲まれ、そびえ立つ天守閣、櫓、城門。。。日本の城は、歴史を感じる特別な場所。天守閣はもちろん、櫓、城門、移築建造物に至るまで、さまざまなアングルからの姿を紹介しています。そして当時の武将たちの息づかいが聞こえてくる、城にまつわる歴史・人物に関する場所・建物や歴代城主なども紹介。四季折々の美しい景色とともに、歴史に思いをはせてみませんか。

  • 小江戸を育んだ武蔵の名城、川越城

    〜戦国の攻防と江戸の繁栄を伝える城〜

    埼玉県川越市にある 川越城本丸御殿 は、武蔵国の要衝として重要な役割を果たした歴史ある城です。現在も本丸御殿の一部が残されており、江戸時代の城郭の姿を今に伝えています。江戸に近い立地から、江戸城の西北を守る重要な拠点として、長く政治と軍事の舞台となりました。

    川越城は、室町時代の長禄元年(1457年)、扇谷上杉氏の家宰であった太田道灌によって築かれたとされています。当時、武蔵国では扇谷上杉氏と古河公方などが勢力を争っており、川越はその重要な拠点でした。道灌が築いた城は、武蔵国の政治・軍事を左右する重要な城郭へと発展していきます。

    戦国時代には北条氏が川越城を支配し、天文15年(1546年)には「川越夜戦」と呼ばれる戦いの舞台となりました。北条氏康が上杉氏の大軍を破ったこの戦いは、戦国時代を代表する合戦の一つとして知られています。その後、天正18年(1590年)の小田原征伐によって北条氏が滅亡すると、徳川家康が関東へ移封され、川越城には酒井重忠が入城しました。

    江戸時代になると、川越城は江戸の北西を守る重要な城として幕府から重視されます。酒井氏、堀田氏、松平氏などの譜代大名が城主を務め、幕府の要職を担う大名が配置されました。なかでも寛永16年(1639年)に入城した松平信綱は、川越城の大規模な拡張を行い、城下町の整備にも力を注ぎました。川越が「小江戸」と呼ばれる基盤も、この時代に築かれていきました。

    幕末には、川越藩主・松平直克が幕府の老中を務めるなど、川越藩は幕府政治の中でも重要な位置を占めました。しかし、明治維新を迎えると廃城となり、城の建物や堀の多くが失われました。現在は本丸御殿の一部や富士見櫓跡などが残り、往時の川越城の姿を伝えています。

    川越城は、太田道灌が築いた戦国の城から、北条氏の支配、そして江戸幕府を支えた譜代大名の居城へと、その役割を大きく変えてきました。江戸に近い武蔵国の要衝として、幾多の戦乱と時代の変化を見つめ続けた川越城は、現在の川越の歴史を語るうえでも欠かせない存在です。

    川越城 本丸御殿(埼玉県指定文化財)

    弘化3年(1846)の二ノ丸御殿焼失後に建造され、嘉永元年(1848)に完成した本丸御殿です。当時の城主・松平大和守斉典が17万石の大名であったことから、格式ある壮大な御殿が築かれました。

    現在は玄関・広間など一部が残るのみですが、当時は城主の居住空間や家老詰所などを備えた広大な御殿でした。現存する貴重な本丸御殿として、江戸時代の川越城の姿を今に伝えています。

    本丸御殿内部

    川越城下・喜多院にある富士見櫓模型

    川越歴代藩主一覧

    ~川越城下町~

    喜多院

    喜多院は、天台宗の古刹で、江戸時代には天海僧正(慈眼大師)が法統をつぎ、徳川家康・家光と深い関わりを持つ川越を代表する寺院です。寛永15年(1638年)の川越大火後、江戸城の一部が移築され、現在も家光誕生の間や春日局の間などが残されています。また、境内には多くの文化財が残され、国指定重要文化財として大切に保存されています。

    山門(国指定重要文化財)番所(埼玉県指定文化財)

    鐘楼門(国指定重要文化財)

    慈眼堂(国指定重要文化財)

    慈恵堂(埼玉県指定文化財)

    多宝塔(埼玉県指定文化財)

    庫裏(国指定重要文化財)

    書院(国指定重要文化財)庭

    客殿(国指定重要文化財)

    松平大和守家廟所(川越市指定文化財)

    仙波東照宮

    仙波東照宮は、徳川家康を祀る東照宮で寛永10年(1633)に天海僧正により創建され、寛永15年(1638)の川越大火で焼失した後、再建されました。日光東照宮・久能山東照宮と並ぶ三大東照宮の一つとされています。

    仙波東照宮 随身門。石鳥居(国指定重要文化財)

    仙波東照宮 拝殿、幣殿(国指定重要文化財)

    仙波東照宮 本殿(国指定重要文化財)

    仙波東照宮 拝殿、幣殿、本殿(国指定重要文化財)

    三芳野神社(埼玉県指定文化財)

    川越城下の蕎麦屋

    そば十限無さんで、美味しい蕎麦前、日本酒とお蕎麦を堪能。

  • 天下を治めた徳川将軍の居城

    〜江戸幕府の歴史を刻む江戸城〜

    東京都千代田区にある江戸城は、徳川将軍家の居城として江戸時代を通じて日本の政治の中心となった、日本を代表する名城です。広大な城域には幾重もの堀や石垣、門、櫓が築かれ、かつては日本最大級の城郭を誇りました。現在も皇居東御苑を中心に、往時を偲ばせる壮大な石垣や堀、城門などが残されています。

    江戸城の歴史は、室町時代に太田道灌が築いた城に始まります。道灌は江戸の地に城を築き、江戸城の基礎をつくりました。その後、北条氏の支配を経て、天正18年(1590年)の小田原征伐後に徳川家康が江戸へ入府します。家康は江戸城を居城と定め、関ヶ原の戦いを経て江戸幕府を開くと、城の大規模な拡張と整備を進めました。

    二代将軍・徳川秀忠、三代将軍・徳川家光の時代にも城郭の拡張は続けられ、巨大な天守や壮大な御殿、幾重にも巡らされた堀と石垣が整備されました。特に寛永15年(1638年)に完成した三代将軍・徳川家光の時代の天守は、史上最大級の規模を誇ったとされています。しかし、明暦3年(1657年)の明暦の大火によって天守をはじめ城内の多くの建物が焼失し、天守は再建されることなく、その後は富士見櫓などが城の象徴となりました。

    江戸時代、江戸城は単なる将軍の居城ではありませんでした。全国の大名が江戸と領国を往来する参勤交代の制度や、幕府の政治・儀礼が行われる場所として、日本の政治を動かす中心地となりました。大名たちが登城し、将軍との謁見や諸藩との交流が行われた江戸城は、まさに260年以上にわたる幕府政治の舞台でした。

    幕末になると、江戸城は再び大きな歴史の転換点を迎えます。慶応4年(1868年)、戊辰戦争の中で新政府軍が江戸へ進軍するなか、勝海舟と西郷隆盛の交渉によって江戸城は戦火を免れ、無血開城となりました。約260年続いた徳川幕府は終焉を迎え、江戸城はその長い歴史の舞台を新たな時代へと引き継ぐことになります。

    現在、江戸城の中心部は皇居となっていますが、皇居東御苑などでは本丸跡、天守台、富士見櫓、また、国指定重要文化財の桜田門、田安門、清水門など、江戸城の壮大さ、歴史を伝える遺構を見ることができます。巨大な石垣や深い堀を目の前にすると、かつてここを中心に全国の大名が動き、徳川将軍家が日本を治めていた時代の姿が浮かび上がります。

    江戸城 桜田門(国指定重要文化財)

    江戸城の南西側に位置する重要な城門で、**外桜田門と内桜田門(桔梗門)**の2つがある。現在の外桜田門は、寛永13年(1636)頃に整備された枡形門で、高麗門と渡櫓門から構成される。現在も江戸城の城門として当時の姿をよく残しており、国の重要文化財に指定されている。

    江戸城 田安門(国指定重要文化財)

    江戸城北の丸北端に位置する枡形門で、高麗門と櫓門からなる。現在の門は寛永13年(1636)の建立とされ、江戸城の総構が完成した時期にさかのぼる貴重な遺構である。現存する旧江戸城建築遺構のうちで最古のものです。

    江戸城 清水門(国指定重要文化財)

    江戸城北の丸東部に位置する城門で、高麗門と櫓門からなる枡形門。現在の門は、扉の金具に残る刻銘などから、万治元年(1658)頃に建てられたものと考えられている。江戸城の城門の中でも、高麗門・櫓門・石段が一体となって残る貴重な遺構で、江戸時代の城門の姿をよく伝えている。昭和36年(1961)に国の重要文化財に指定された。

    江戸城 富士見櫓(現存)

    江戸城本丸の南西隅に築かれた三重櫓で、天守焼失後は江戸城を代表する櫓の一つとなった。明暦3年(1657)の明暦の大火後に再建されたと考えられ、江戸城の現存する櫓の中でも重要な遺構である。

    乾通りより

    城内より

    江戸城 伏見櫓(現存)

    江戸城西の丸南側に位置する二重櫓で、江戸城の現存する櫓の一つ。名称は、京都の伏見城から移築されたと伝えられていることに由来する。現在の建物は、明暦3年(1657)の明暦の大火後に再建されたものと考えられており、櫓と石垣、土橋、二重橋と一体となった景観は、江戸城西の丸の往時の姿を今に伝えている。

    江戸城 桜田二重櫓/巽櫓(現存)

    江戸城本丸の東南側、二の丸との境付近に築かれた二重櫓で、別名「巽二重櫓」とも呼ばれる。櫓は石垣の上に建ち、本丸東南側の防御を担う重要な施設だった。

    現在の建物は江戸時代の姿を伝える現存櫓の一つで、巽櫓・富士見櫓とともに、皇居東御苑に残る江戸城の貴重な遺構である。

    江戸城 富士見多門櫓(現存)

    江戸城本丸の西側に築かれた長屋造りの防御施設で、櫓内部には武器や物資などが収められ、本丸を守る重要な防御施設として機能した。現在の建物は、明暦の大火(1657年)後に再建されたものとされ、江戸城本丸に残る貴重な多門櫓の遺構である。

    江戸城 大手門(渡櫓門 復元/高麗門 現存)

    江戸城は三十六見附といわれ「枡形門」とよばれる多くの城門がありました。大手門は、江戸城の正門で、その警護には十万石以上の譜代大名があたっていました。築城当初の門は、明暦3年(1657)の大火で焼け落ち、翌年再建されましたが、関東震災によって倒壊しました。
     現存の渡櫓門は昭和42年再建、高麗門は明暦3年再建時のものです。

    江戸城 桔梗門/内桜田門(復元)

    江戸城の内桜田門とも呼ばれる城門で、(現在の桜田門は外桜田門)江戸城本丸南口の通用門として、本丸へ向かう際には、大手門と並ぶ登城の門でした。関東大震災後、復元された。

    江戸城 平川門(渡櫓門 復元/高麗門 現存)

    三の丸の正門である平川門は、1620(元和6)年、仙台藩主伊達政宗ほか六名の大名によってつくられた江戸城三の丸の正門です。本丸大奥に通じる奥女中の通用門だったため別名「お局門」、場内の死者や罪人などの出口とされていたことから「不浄門」ともいわれます。渡り櫓の櫓部は、関東大震災で大破してしまいましたが、後に復元されました。

    江戸城 百人番所(現存)

    江戸城 大番所(現存)

    江戸城 同心番所(現存)

    江戸城 天守閣復元模型(寛永期天守閣)

    江戸城 天守台石垣

    江戸城 石垣

    中之門

    中雀門

    汐見坂

    下梅林門

    梅林坂

    江戸城 濠

    白鳥濠

    乾濠

    道灌濠

    江戸城 二の丸庭園

    江戸城歴代城主・城代および徳川将軍家一覧

  • 難攻不落を誇った後北条氏の名城 小田原城

    〜関東制覇を支えた後北条氏の本城〜

    神奈川県小田原市にある小田原城は、戦国時代に関東一円を支配した後北条氏の本拠として栄えた名城です。幾重にも巡らされた堀や土塁、城下町をも取り囲む壮大な**総構(そうがまえ)**は、日本最大級の防御施設として知られ、「難攻不落の城」としてその名を天下に轟かせました。

    小田原城の起源は15世紀半ばに築かれたとされ、戦国時代には後北条氏初代・北条早雲(伊勢宗瑞)が小田原を本拠としたことで大きく発展しました。二代氏綱、三代氏康、四代氏政、五代氏直へと受け継がれ、関東最大の戦国大名へと成長した後北条氏は、小田原城を政治・軍事の中心として関東支配を確立します。

    永禄4年(1561年)の上杉謙信、永禄12年(1569年)の武田信玄に攻められるも城は落ちず難攻不落と言われたものの、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐では、城下町を包み込む総構が威力を発揮しましたが、全国から集結した20満を超える豊臣軍による包囲の結果、約3か月に及ぶ籠城戦の末に開城し、後北条氏は五代で滅亡しました。

    江戸時代には徳川幕府の重要拠点となり、大久保氏や稲葉氏など譜代大名が城主を務め、小田原藩の政治・経済・交通の中心として発展しました。現在の天守は復興されたものですが、石垣や堀、総構の遺構は今なお往時の姿を伝えています。戦国時代の壮大な城郭と、江戸時代の城下町の歴史を今に伝える、小田原城は関東を代表する名城の一つです。

    小田原城 天守閣(復興)

    小田原城遠望

    夜景

    小田原城 常盤木門(復興)

    城内より

    小田原城 銅門(木造復元)

    小田原城 馬出門(木造復元)

    小田原城 隅櫓(復興)

    小田原の海の幸

  • 武田氏の本拠地から徳川幕府の要城へ ― 甲府城

    〜甲斐の歴史と将軍家ゆかりの系譜を今に伝える名城〜

    山梨県甲府市にある甲府城は、別名「舞鶴城」とも呼ばれる甲斐国を代表する名城です。現在は石垣や堀、復元された櫓や城門が往時の姿を伝えていますが、その歴史は戦国時代の武田氏滅亡と天下統一の時代に深く結びついています。

    戦国時代、甲斐国の中心であったのは武田信玄の居館である躑躅ヶ崎館であり、現在の甲府城はまだ存在していませんでした。天正10年(1582年)に武田氏が滅亡すると、織田氏、徳川氏、豊臣氏による甲斐支配が進められます。豊臣政権下では加藤光泰・浅野長政父子らによって築城が進められ、浅野氏の時代に近世城郭としての甲府城が完成しました。

    関ヶ原の戦いの後、甲府城は徳川家の重要拠点となります。甲斐国は江戸防衛の要地とされ、城には徳川一門や譜代大名が配置されました。後に将軍となる徳川家宣(当時は綱豊)も甲府藩主となり、甲府城は将軍家と深い関わりを持つ城として発展します。

    江戸時代を通じて甲府城は甲斐国統治の中心であり続けましたが、享保9年(1724年)に柳沢氏転封後に甲府藩は廃藩となり、以後は幕府直轄領を治める甲府勤番の拠点となりました。そして幕末には甲州勝沼の戦いなど戊辰戦争の舞台ともなり、明治維新を迎えました。

    現在の甲府城には壮大な石垣や復元された稲荷櫓、鉄門などが復元されており、近世城郭としての威容を今に伝えています。武田氏滅亡後の甲斐支配の象徴として築かれ、徳川将軍家ゆかりの城として発展した名城です。

    甲府城稲荷櫓(木造復元)

    甲府城 鉄門〈くろがねもん〉(木造復元)

    甲府城 稲荷曲輪門(木造復元)

    甲府城 内松蔭門(木造復元)

    甲府城 鍛冶曲輪門(木造復元)

    甲府城 山手御門(木造復元)

    山手渡櫓門

    山手門(高麗門)

    甲府城 石垣/天守台

    甲府城

    甲府城の歴代城主・藩主一覧

    甲府城とは関係ないですが、甲斐といえば武田信玄公

    ~甲斐・武田家ゆかりの寺社~

    塩山 恵林寺 (武田信玄菩提寺)

    恵林寺三門(山梨県文化財)

    武田信玄公の墓

    恵林寺 四脚門(国重要文化財)

    東光寺

    東光寺仏殿(国重要文化財)

    武田義信公(武田信玄嫡男)の墓/諏訪頼重公の墓(武田家の諏訪侵攻により甲斐へ移送され死去)

    甲斐善光寺

    甲斐善光寺 本堂(国重要文化財)

    甲斐大和 景徳院(武田勝頼菩提寺)

    景徳院 山門

    武田勝頼公、信勝公(勝頼嫡男)、勝頼夫人(北条氏) 武田勝頼公像

    雲峰寺(うんぽうじ) 【孫子の旗〈風林火山〉が寺宝】

    雲峰寺 仁王門(国重要文化財)

    雲峰寺 書院(国重要文化財)

    雲峰寺 本堂(国重要文化財)

  • 川中島の要衝に築かれた戦国を生き抜いた真田家の居城 ― 松代城

    〜信州松代に息づく真田家の歴史~

    長野県長野市にある松代城は、戦国時代には海津城と呼ばれ、川中島の戦いにおける武田氏の重要拠点として築かれた名城です。千曲川を天然の防御線として利用した堅固な城であり、武田信玄と上杉謙信が覇を競った川中島の攻防を支えました。

    海津城は永禄3年(1560年)頃に武田氏によって築かれたとされ、武田信玄は重臣・高坂昌信を城代として配置しました。城は軍事拠点であると同時に北信濃支配の中心でもあり、川中島平を見渡す要衝として重要な役割を果たしました。

    武田氏滅亡後、海津城は織田氏、上杉氏、豊臣系大名など支配者がたびたび入れ替わる激動の時代を迎えます。関ヶ原の戦いを経て徳川幕府が成立すると、森氏、松平氏らが城主を務めました。そして元和8年(1622年)、上田から移封された真田信之が松代藩主となり、海津城は松代城と呼ばれるようになります。

    真田信之は、戦国の名将・真田昌幸の長男であり、真田信繁(幸村)の兄として知られる人物です。関ヶ原の戦いでは徳川方につき、真田家存続の礎を築きました。信之の入封以後、松代城は真田家の居城として整備され、松代藩の政治・文化の中心となります。

    江戸時代を通じて真田家は藩政を担いましたが、その歩みは決して平坦なものではありませんでした。財政難や天災への対応、藩政改革など幾度もの困難に直面しながらも、真田家は藩の存続に尽力します。幕末には開国や政治情勢の変化に揺れるなかで新時代への対応を迫られましたが、藩は大きな混乱を乗り越え、明治維新まで存続しました。

    現在の松代城には、本丸を囲む堀や石垣、土塁などが復元され、往時の姿をしのぶことができます。川中島の戦いを支えた武田氏の要塞であり、また真田家が約250年にわたり治めた藩政の中心として、松代城は戦国から幕末へと続く日本史の流れを今に伝えています。川中島の激戦の記憶と真田家の歩みを刻む、信州を代表する名城の一つです。

    松代城 橋詰門・太鼓門(木造復元)

    松代城 太鼓門(木造復元)

    城内より太鼓門を望む

    松代城 北不明門(木造復元)

    松代城 石垣/戌亥櫓台

    戌亥櫓石垣

    本丸石垣                     埋門

    長国寺(真田家菩提寺) 

    松代藩初代藩主 真田信之公御霊屋(国重文)

    松代藩四代藩主真田信弘公御霊屋(長野県宝)

    長国寺開山堂〈旧真田幸道公(三代藩主)御霊屋(長野県宝)〉

    長国寺 松代藩歴代藩主の墓

    初代真田信之公の墓                 真田歴代藩主の墓(初代から10代まで)

    西楽寺 真田信重〈真田信之三男〉公御霊屋(国重文)

    林正寺表門/本堂〈旧真田信政公(二代藩主)御霊屋(県宝)〉

    海津城・松代城 歴代城主、松代藩

    戦国時代の海津城は「城主」ではなく武田氏の「城代」が置かれていました。海津城から松代城へ真田信之入封まで支配勢力は、武田氏→織田氏→上杉氏→豊臣政権→徳川幕府→真田氏と変遷しました。

    松代城下町

    大英寺 表門/本堂〈旧真田信之正室・小松姫御霊屋(県宝)〉

    矢沢家表門(長野市文化財)

    真田家家老・矢沢家屋敷の表門

    横田家住宅(国重文)

    白井家長屋門(長野市文化財)

    真田邸

    文武学校

    お昼のお蕎麦とお酒

    松代焼の器で日本酒

    「日暮庵」でお蕎麦と山菜天ぷら、名産の山芋、そして地酒を堪能。

  • 片倉家の誇りを今に伝える白石城
    〜伊達家を支えた名臣の居城〜

    宮城県白石市にある 白石城 は、仙台藩南部の守りを担った重要な城です。美しく復元された三階櫓は、城下町を見守る白石のシンボルとして親しまれています。仙台藩を支えた重臣・片倉家の居城として知られ、その歴史は戦国時代から幕末に至るまで続きました。

    白石の地は古くから奥州の交通の要衝として重要視され、戦国時代には周辺の大名たちが勢力を争いました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、仙台藩祖の 伊達政宗 は、重臣であり智将として名高い 片倉景綱 に白石城を与えます。景綱は「鬼庭綱元」と並ぶ伊達家屈指の重臣として政宗を支え、その子孫は幕末まで約260年にわたり白石城を守り続けました。

    江戸時代、一国一城令によって多くの支城が廃されるなか、白石城は仙台城に次いで特別に存続を許された城でした。これは片倉家への厚い信頼と、白石が仙台藩南部防衛の拠点として極めて重要だったことを物語っています。城下町も発展し、奥州街道を往来する人々でにぎわいました。

    幕末になると、白石城は歴史の表舞台に登場します。慶応4年(1868年)、仙台藩を中心とする 奥羽越列藩同盟 の盟約が白石城で結ばれ、城は東北諸藩の政治的中心地の一つとなりました。しかし、同盟は新政府軍との戦いに敗れ、白石城もその役割を終えることになります。

    現在の白石城は、1995年に木造で忠実復元された三階櫓を中心に整備されており、往時の姿を今に伝えています。城内からは白石の町並みや蔵王連峰を望むことができ、四季折々の美しい景観も魅力です。伊達家を支え続けた片倉家の歴史と、幕末の激動を伝える東北屈指の名城として、多くの人々を惹きつけています。

    白石城三階櫓(木造復元)

    白石城三階櫓と大手二の門(木造復元)

    白石城大手二の門(木造復元)

    白石城下 片倉家中武家屋敷 小関家住宅(宮城県文化財)

    白石城歴代城主一覧

  • 伊達政宗の夢が息づく仙台城
    〜独眼竜の志を今に伝える杜の都の城〜

    宮城県仙台市にある 仙台城跡(青葉城)は、東北を代表する戦国大名・伊達政宗 が築いた名城です。広瀬川を見下ろす青葉山の高台に築かれた城は、天然の地形を巧みに利用した堅固な要塞であり、伊達氏の威勢と仙台藩の繁栄を象徴する存在でした。

    戦国時代の終わり、伊達政宗は奥州統一を目指して各地を転戦しました。豊臣政権の時代を経て、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後に仙台の地へ移り、慶長6年(1601年)から仙台城の築城を開始します。断崖絶壁の青葉山に築かれた城は、敵の侵入を防ぐ優れた防御機能を備え、東北最大級の藩である仙台藩の政治・経済・文化の中心として発展しました。

    江戸時代を通じて仙台城は伊達氏の居城として栄え、城下町も大きく発展しました。現在の仙台市の礎となった街並みは、この時代に形づくられたものです。歴代藩主たちは城の整備を進めながら、学問や文化の振興にも力を注ぎ、仙台は東北屈指の城下町として繁栄しました。

    戦国の英雄・伊達政宗の夢と、400年以上にわたり受け継がれてきた仙台の歴史を感じることができる、東北屈指の名城です。

    仙台城 隅櫓(復元)

    仙台城 清水門跡 石垣

    仙台城 本丸石垣

    仙台城本丸 伊達政宗公騎馬像

    仙台城本丸からの眺め

    仙台の牛タンと日本酒

    仙台城歴代城主(仙台藩主)

  • 赤瓦の天守がそびえる鶴ヶ城
    〜幕末の激動を今に伝える みちのくの城〜

    福島県会津若松市にある鶴ヶ城(会津若松城)は、戦国時代から幕末まで歴史の舞台となった名城です。特徴的な赤瓦の天守は、城の威厳と会津の誇りを象徴しています。

    会津地方は戦国時代、多くの有力大名が支配を争った地でした。芦名氏はこの地を治めた名族で、戦略的要塞として城の基礎を築きました。その後、伊達氏が芦名氏を攻略し、奥州の覇者となりました。しかし、その後すぐに豊臣秀吉の天下となりや蒲生氏、上杉氏と城主は変わり、その中で城はその都度改修と強化を重ねました。こうした歴史の積み重ねが、城の堅牢な石垣や堀に今も刻まれています。

    江戸時代になり、徳川家康の孫、徳川秀忠の異母弟で、ある保科正之が会津藩主となり会津藩の礎を築きました。幕末、会津藩は幕府に忠義を尽くすため、戊辰戦争の激戦地となりました。鶴ヶ城は新政府軍の攻撃を受け、城内外には戦火の痕跡が残りました。石垣や堀に残る傷跡、城下町に広がった戦乱の記憶は、今も会津の人々の心に深く刻まれています。

    現在の鶴ヶ城は復元された姿ですが、城を歩けば、戦国の要塞としての歴史だけでなく、幕末の激戦を乗り越えた会津の魂を感じることができます。春の桜や秋の紅葉に彩られる赤瓦の天守は、歴史と自然が織りなす絶景。戦国の武将たちの争いと、幕末の忠義の物語を肌で感じることができるでしょう。

    様々な角度から眺めても美しい天守閣

    鉄門(外観復元)

    干飯櫓、南走長屋、鉄門(復元)

    干飯(ほしい)櫓、南走長屋(復元)

    茶室 麟閣(移築復元)

    廊下橋

    本丸 御三階跡

    御三階(阿弥陀寺移築現存)

    黒川城・会津若松城の歴代城主、藩主一覧

    会津松平家廟所

    2代藩主保科正経(まさつね)公の墓

    3代藩主松平正容(まさかた)公の墓、5代藩主松平容頌(かたのぶ)公の墓

    7代藩主松平容衆(かたひろ)公の墓、6代藩主松平容住(かたおき)公の墓

    9代藩主松平容保(かたもり)公の墓

    足腰に厳しい山中の廟所。すべての藩主のお墓はお参りできず。。。廟所の中でニホンカモシカに遭遇!

    会津松平氏庭園(御薬園)

    会津武家屋敷

    当時を感じさせる復元された武家屋敷・西郷頼母邸

    旧中畑陣屋主屋(福島県指定文化財)

    会津のお蕎麦と酒

    美味しく地酒・会津娘と天ぷらとお蕎麦を堪能。

  • 歴史と悲劇を伝える二本松城(霞ヶ城)

    福島県二本松市にある**二本松城(霞ヶ城)**は、白旗ヶ峰に築かれた東北有数の山城です。現在は霞ヶ城公園として整備され、桜や紅葉の名所として親しまれています。

    城は室町時代に畠山氏が築き、江戸時代には丹羽氏のもとで整備されました。戊辰戦争では激戦地となり、二本松少年隊の悲劇が語り継がれています。復元された箕輪門や石垣が当時をしのばせる城跡です。

    二本松城箕輪門(復元)

    箕輪門(みのわもん)は、二本松城の正門にあたる重要な城門です。
    江戸時代初期、城主・丹羽光重によって建てられ、城内でも最大規模の門でした。石垣と重厚な城門が一体となり、城の威厳を示していました。現在の箕輪門は、往時の資料や発掘調査をもとに復元されたもので、二本松城の象徴的な存在となっています。

    二本松藩歴代藩主

  • 白河小峰城 — 石垣と三重櫓が語る東北の名城

    福島県の白河小峰城は、江戸時代初期に丹羽長重によって築かれた美しい平山城です。真っ白な三重櫓と石垣が印象的で、まるで白鳥が羽を広げているような優雅さを感じさせます。戊辰戦争では激しい戦火に巻き込まれ、一度は焼失しましたが、現在は石垣や櫓が復元され、当時の姿をしのぶことができます。春には桜が城を彩り、歴史と自然の調和を楽しみながら、静かに城の物語に耳を傾けられる場所です。

    白河小峰城 御三階櫓(復元)

    白河小峰城 前御門(復元)

    白河小峰城 石垣

    旧白河小峰城太鼓櫓(白河市指定重要文化財)

    白河歴代藩主一覧

    白河藩主廟所

    丹羽長重公御霊屋

    白河藩主松平直矩・基知の墓

    白河藩主松平忠弘の嫡男・清照の墓

    蕎麦 大福家

    白河蕎麦と福島の地酒・陣屋、たらの芽のてんぷらとともに堪能