日本の城

日本の城。高い石垣や深い堀に囲まれ、そびえ立つ天守閣、櫓、城門。。。日本の城は、歴史を感じる特別な場所。天守閣はもちろん、櫓、城門、移築建造物に至るまで、さまざまなアングルからの姿を紹介しています。そして当時の武将たちの息づかいが聞こえてくる、城にまつわる歴史・人物に関する場所・建物や歴代城主なども紹介。四季折々の美しい景色とともに、歴史に思いをはせてみませんか。

  • 難攻不落を誇った後北条氏の名城 小田原城

    〜関東制覇を支えた後北条氏の本城〜

    神奈川県小田原市にある小田原城は、戦国時代に関東一円を支配した後北条氏の本拠として栄えた名城です。幾重にも巡らされた堀や土塁、城下町をも取り囲む壮大な**総構(そうがまえ)**は、日本最大級の防御施設として知られ、「難攻不落の城」としてその名を天下に轟かせました。

    小田原城の起源は15世紀半ばに築かれたとされ、戦国時代には後北条氏初代・北条早雲(伊勢宗瑞)が小田原を本拠としたことで大きく発展しました。二代氏綱、三代氏康、四代氏政、五代氏直へと受け継がれ、関東最大の戦国大名へと成長した後北条氏は、小田原城を政治・軍事の中心として関東支配を確立します。

    永禄4年(1561年)の上杉謙信、永禄12年(1569年)の武田信玄に攻められるも城は落ちず難攻不落と言われたものの、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐では、城下町を包み込む総構が威力を発揮しましたが、全国から集結した20満を超える豊臣軍による包囲の結果、約3か月に及ぶ籠城戦の末に開城し、後北条氏は五代で滅亡しました。

    江戸時代には徳川幕府の重要拠点となり、大久保氏や稲葉氏など譜代大名が城主を務め、小田原藩の政治・経済・交通の中心として発展しました。現在の天守は復興されたものですが、石垣や堀、総構の遺構は今なお往時の姿を伝えています。戦国時代の壮大な城郭と、江戸時代の城下町の歴史を今に伝える、小田原城は関東を代表する名城の一つです。

    小田原城 天守閣(復興)

    小田原城遠望

    夜景

    小田原城 常盤木門(復興)

    城内より

    小田原城 銅門(木造復元)

    小田原城 馬出門(木造復元)

    小田原城 隅櫓(復興)

    小田原の海の幸

  • 武田氏の本拠地から徳川幕府の要城へ ― 甲府城

    〜甲斐の歴史と将軍家ゆかりの系譜を今に伝える名城〜

    山梨県甲府市にある甲府城は、別名「舞鶴城」とも呼ばれる甲斐国を代表する名城です。現在は石垣や堀、復元された櫓や城門が往時の姿を伝えていますが、その歴史は戦国時代の武田氏滅亡と天下統一の時代に深く結びついています。

    戦国時代、甲斐国の中心であったのは武田信玄の居館である躑躅ヶ崎館であり、現在の甲府城はまだ存在していませんでした。天正10年(1582年)に武田氏が滅亡すると、織田氏、徳川氏、豊臣氏による甲斐支配が進められます。豊臣政権下では加藤光泰・浅野長政父子らによって築城が進められ、浅野氏の時代に近世城郭としての甲府城が完成しました。

    関ヶ原の戦いの後、甲府城は徳川家の重要拠点となります。甲斐国は江戸防衛の要地とされ、城には徳川一門や譜代大名が配置されました。後に将軍となる徳川家宣(当時は綱豊)も甲府藩主となり、甲府城は将軍家と深い関わりを持つ城として発展します。

    江戸時代を通じて甲府城は甲斐国統治の中心であり続けましたが、享保9年(1724年)に柳沢氏転封後に甲府藩は廃藩となり、以後は幕府直轄領を治める甲府勤番の拠点となりました。そして幕末には甲州勝沼の戦いなど戊辰戦争の舞台ともなり、明治維新を迎えました。

    現在の甲府城には壮大な石垣や復元された稲荷櫓、鉄門などが復元されており、近世城郭としての威容を今に伝えています。武田氏滅亡後の甲斐支配の象徴として築かれ、徳川将軍家ゆかりの城として発展した名城です。

    甲府城稲荷櫓(木造復元)

    甲府城 鉄門〈くろがねもん〉(木造復元)

    甲府城 稲荷曲輪門(木造復元)

    甲府城 内松蔭門(木造復元)

    甲府城 鍛冶曲輪門(木造復元)

    甲府城 山手御門(木造復元)

    山手渡櫓門

    山手門(高麗門)

    甲府城 石垣/天守台

    甲府城

    甲府城の歴代城主・藩主一覧

    甲府城とは関係ないですが、甲斐といえば武田信玄公

    ~甲斐・武田家ゆかりの寺社~

    塩山 恵林寺 (武田信玄菩提寺)

    恵林寺三門(山梨県文化財)

    武田信玄公の墓

    恵林寺 四脚門(国重要文化財)

    東光寺

    東光寺仏殿(国重要文化財)

    武田義信公(武田信玄嫡男)の墓/諏訪頼重公の墓(武田家の諏訪侵攻により甲斐へ移送され死去)

    甲斐善光寺

    甲斐善光寺 本堂(国重要文化財)

    甲斐大和 景徳院(武田勝頼菩提寺)

    景徳院 山門

    武田勝頼公、信勝公(勝頼嫡男)、勝頼夫人(北条氏) 武田勝頼公像

    雲峰寺(うんぽうじ) 【孫子の旗〈風林火山〉が寺宝】

    雲峰寺 仁王門(国重要文化財)

    雲峰寺 書院(国重要文化財)

    雲峰寺 本堂(国重要文化財)

  • 川中島の要衝に築かれた戦国を生き抜いた真田家の居城 ― 松代城

    〜信州松代に息づく真田家の歴史~

    長野県長野市にある松代城は、戦国時代には海津城と呼ばれ、川中島の戦いにおける武田氏の重要拠点として築かれた名城です。千曲川を天然の防御線として利用した堅固な城であり、武田信玄と上杉謙信が覇を競った川中島の攻防を支えました。

    海津城は永禄3年(1560年)頃に武田氏によって築かれたとされ、武田信玄は重臣・高坂昌信を城代として配置しました。城は軍事拠点であると同時に北信濃支配の中心でもあり、川中島平を見渡す要衝として重要な役割を果たしました。

    武田氏滅亡後、海津城は織田氏、上杉氏、豊臣系大名など支配者がたびたび入れ替わる激動の時代を迎えます。関ヶ原の戦いを経て徳川幕府が成立すると、森氏、松平氏らが城主を務めました。そして元和8年(1622年)、上田から移封された真田信之が松代藩主となり、海津城は松代城と呼ばれるようになります。

    真田信之は、戦国の名将・真田昌幸の長男であり、真田信繁(幸村)の兄として知られる人物です。関ヶ原の戦いでは徳川方につき、真田家存続の礎を築きました。信之の入封以後、松代城は真田家の居城として整備され、松代藩の政治・文化の中心となります。

    江戸時代を通じて真田家は藩政を担いましたが、その歩みは決して平坦なものではありませんでした。財政難や天災への対応、藩政改革など幾度もの困難に直面しながらも、真田家は藩の存続に尽力します。幕末には開国や政治情勢の変化に揺れるなかで新時代への対応を迫られましたが、藩は大きな混乱を乗り越え、明治維新まで存続しました。

    現在の松代城には、本丸を囲む堀や石垣、土塁などが復元され、往時の姿をしのぶことができます。川中島の戦いを支えた武田氏の要塞であり、また真田家が約250年にわたり治めた藩政の中心として、松代城は戦国から幕末へと続く日本史の流れを今に伝えています。川中島の激戦の記憶と真田家の歩みを刻む、信州を代表する名城の一つです。

    松代城 橋詰門・太鼓門(木造復元)

    松代城 太鼓門(木造復元)

    城内より太鼓門を望む

    松代城 北不明門(木造復元)

    松代城 石垣/戌亥櫓台

    戌亥櫓石垣

    本丸石垣                     埋門

    長国寺(真田家菩提寺) 

    松代藩初代藩主 真田信之公御霊屋(国重文)

    松代藩四代藩主真田信弘公御霊屋(長野県宝)

    長国寺開山堂〈旧真田幸道公(三代藩主)御霊屋(長野県宝)〉

    長国寺 松代藩歴代藩主の墓

    初代真田信之公の墓                 真田歴代藩主の墓(初代から10代まで)

    西楽寺 真田信重〈真田信之三男〉公御霊屋(国重文)

    林正寺表門/本堂〈旧真田信政公(二代藩主)御霊屋(県宝)〉

    海津城・松代城 歴代城主、松代藩

    戦国時代の海津城は「城主」ではなく武田氏の「城代」が置かれていました。海津城から松代城へ真田信之入封まで支配勢力は、武田氏→織田氏→上杉氏→豊臣政権→徳川幕府→真田氏と変遷しました。

    松代城下町

    大英寺 表門/本堂〈旧真田信之正室・小松姫御霊屋(県宝)〉

    矢沢家表門(長野市文化財)

    真田家家老・矢沢家屋敷の表門

    横田家住宅(国重文)

    白井家長屋門(長野市文化財)

    真田邸

    文武学校

    お昼のお蕎麦とお酒

    松代焼の器で日本酒

    「日暮庵」でお蕎麦と山菜天ぷら、名産の山芋、そして地酒を堪能。

  • 片倉家の誇りを今に伝える白石城
    〜伊達家を支えた名臣の居城〜

    宮城県白石市にある 白石城 は、仙台藩南部の守りを担った重要な城です。美しく復元された三階櫓は、城下町を見守る白石のシンボルとして親しまれています。仙台藩を支えた重臣・片倉家の居城として知られ、その歴史は戦国時代から幕末に至るまで続きました。

    白石の地は古くから奥州の交通の要衝として重要視され、戦国時代には周辺の大名たちが勢力を争いました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、仙台藩祖の 伊達政宗 は、重臣であり智将として名高い 片倉景綱 に白石城を与えます。景綱は「鬼庭綱元」と並ぶ伊達家屈指の重臣として政宗を支え、その子孫は幕末まで約260年にわたり白石城を守り続けました。

    江戸時代、一国一城令によって多くの支城が廃されるなか、白石城は仙台城に次いで特別に存続を許された城でした。これは片倉家への厚い信頼と、白石が仙台藩南部防衛の拠点として極めて重要だったことを物語っています。城下町も発展し、奥州街道を往来する人々でにぎわいました。

    幕末になると、白石城は歴史の表舞台に登場します。慶応4年(1868年)、仙台藩を中心とする 奥羽越列藩同盟 の盟約が白石城で結ばれ、城は東北諸藩の政治的中心地の一つとなりました。しかし、同盟は新政府軍との戦いに敗れ、白石城もその役割を終えることになります。

    現在の白石城は、1995年に木造で忠実復元された三階櫓を中心に整備されており、往時の姿を今に伝えています。城内からは白石の町並みや蔵王連峰を望むことができ、四季折々の美しい景観も魅力です。伊達家を支え続けた片倉家の歴史と、幕末の激動を伝える東北屈指の名城として、多くの人々を惹きつけています。

    白石城三階櫓(木造復元)

    白石城三階櫓と大手二の門(木造復元)

    白石城大手二の門(木造復元)

    白石城下 片倉家中武家屋敷 小関家住宅(宮城県文化財)

    白石城歴代城主一覧

  • 伊達政宗の夢が息づく仙台城
    〜独眼竜の志を今に伝える杜の都の城〜

    宮城県仙台市にある 仙台城跡(青葉城)は、東北を代表する戦国大名・伊達政宗 が築いた名城です。広瀬川を見下ろす青葉山の高台に築かれた城は、天然の地形を巧みに利用した堅固な要塞であり、伊達氏の威勢と仙台藩の繁栄を象徴する存在でした。

    戦国時代の終わり、伊達政宗は奥州統一を目指して各地を転戦しました。豊臣政権の時代を経て、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後に仙台の地へ移り、慶長6年(1601年)から仙台城の築城を開始します。断崖絶壁の青葉山に築かれた城は、敵の侵入を防ぐ優れた防御機能を備え、東北最大級の藩である仙台藩の政治・経済・文化の中心として発展しました。

    江戸時代を通じて仙台城は伊達氏の居城として栄え、城下町も大きく発展しました。現在の仙台市の礎となった街並みは、この時代に形づくられたものです。歴代藩主たちは城の整備を進めながら、学問や文化の振興にも力を注ぎ、仙台は東北屈指の城下町として繁栄しました。

    戦国の英雄・伊達政宗の夢と、400年以上にわたり受け継がれてきた仙台の歴史を感じることができる、東北屈指の名城です。

    仙台城 隅櫓(復元)

    仙台城 清水門跡 石垣

    仙台城 本丸石垣

    仙台城本丸 伊達政宗公騎馬像

    仙台城本丸からの眺め

    仙台の牛タンと日本酒

    仙台城歴代城主(仙台藩主)

  • 赤瓦の天守がそびえる鶴ヶ城
    〜幕末の激動を今に伝える みちのくの城〜

    福島県会津若松市にある鶴ヶ城(会津若松城)は、戦国時代から幕末まで歴史の舞台となった名城です。特徴的な赤瓦の天守は、城の威厳と会津の誇りを象徴しています。

    会津地方は戦国時代、多くの有力大名が支配を争った地でした。芦名氏はこの地を治めた名族で、戦略的要塞として城の基礎を築きました。その後、伊達氏が芦名氏を攻略し、奥州の覇者となりました。しかし、その後すぐに豊臣秀吉の天下となりや蒲生氏、上杉氏と城主は変わり、その中で城はその都度改修と強化を重ねました。こうした歴史の積み重ねが、城の堅牢な石垣や堀に今も刻まれています。

    江戸時代になり、徳川家康の孫、徳川秀忠の異母弟で、ある保科正之が会津藩主となり会津藩の礎を築きました。幕末、会津藩は幕府に忠義を尽くすため、戊辰戦争の激戦地となりました。鶴ヶ城は新政府軍の攻撃を受け、城内外には戦火の痕跡が残りました。石垣や堀に残る傷跡、城下町に広がった戦乱の記憶は、今も会津の人々の心に深く刻まれています。

    現在の鶴ヶ城は復元された姿ですが、城を歩けば、戦国の要塞としての歴史だけでなく、幕末の激戦を乗り越えた会津の魂を感じることができます。春の桜や秋の紅葉に彩られる赤瓦の天守は、歴史と自然が織りなす絶景。戦国の武将たちの争いと、幕末の忠義の物語を肌で感じることができるでしょう。

    様々な角度から眺めても美しい天守閣

    鉄門(外観復元)

    干飯櫓、南走長屋、鉄門(復元)

    干飯(ほしい)櫓、南走長屋(復元)

    茶室 麟閣(移築復元)

    廊下橋

    本丸 御三階跡

    御三階(阿弥陀寺移築現存)

    黒川城・会津若松城の歴代城主、藩主一覧

    会津松平家廟所

    2代藩主保科正経(まさつね)公の墓

    3代藩主松平正容(まさかた)公の墓、5代藩主松平容頌(かたのぶ)公の墓

    7代藩主松平容衆(かたひろ)公の墓、6代藩主松平容住(かたおき)公の墓

    9代藩主松平容保(かたもり)公の墓

    足腰に厳しい山中の廟所。すべての藩主のお墓はお参りできず。。。廟所の中でニホンカモシカに遭遇!

    会津松平氏庭園(御薬園)

    会津武家屋敷

    当時を感じさせる復元された武家屋敷・西郷頼母邸

    旧中畑陣屋主屋(福島県指定文化財)

    会津のお蕎麦と酒

    美味しく地酒・会津娘と天ぷらとお蕎麦を堪能。

  • 歴史と悲劇を伝える二本松城(霞ヶ城)

    福島県二本松市にある**二本松城(霞ヶ城)**は、白旗ヶ峰に築かれた東北有数の山城です。現在は霞ヶ城公園として整備され、桜や紅葉の名所として親しまれています。

    城は室町時代に畠山氏が築き、江戸時代には丹羽氏のもとで整備されました。戊辰戦争では激戦地となり、二本松少年隊の悲劇が語り継がれています。復元された箕輪門や石垣が当時をしのばせる城跡です。

    二本松城箕輪門(復元)

    箕輪門(みのわもん)は、二本松城の正門にあたる重要な城門です。
    江戸時代初期、城主・丹羽光重によって建てられ、城内でも最大規模の門でした。石垣と重厚な城門が一体となり、城の威厳を示していました。現在の箕輪門は、往時の資料や発掘調査をもとに復元されたもので、二本松城の象徴的な存在となっています。

    二本松藩歴代藩主

  • 白河小峰城 — 石垣と三重櫓が語る東北の名城

    福島県の白河小峰城は、江戸時代初期に丹羽長重によって築かれた美しい平山城です。真っ白な三重櫓と石垣が印象的で、まるで白鳥が羽を広げているような優雅さを感じさせます。戊辰戦争では激しい戦火に巻き込まれ、一度は焼失しましたが、現在は石垣や櫓が復元され、当時の姿をしのぶことができます。春には桜が城を彩り、歴史と自然の調和を楽しみながら、静かに城の物語に耳を傾けられる場所です。

    白河小峰城 御三階櫓(復元)

    白河小峰城 前御門(復元)

    白河小峰城 石垣

    旧白河小峰城太鼓櫓(白河市指定重要文化財)

    白河歴代藩主一覧

    白河藩主廟所

    丹羽長重公御霊屋

    白河藩主松平直矩・基知の墓

    白河藩主松平忠弘の嫡男・清照の墓

    蕎麦 大福家

    白河蕎麦と福島の地酒・陣屋、たらの芽のてんぷらとともに堪能

  • 諏訪高島城 ― 諏訪湖に浮かぶ「諏訪の浮城」

    長野県諏訪市にある高島城は、その美しい姿から「諏訪の浮城」と呼ばれています。かつてはお堀に湖の水が入り込み、まるで湖に浮かんでいるように見えたんだとか。

    このお城は戦国時代末期に、諏訪氏の後を継いだ日根野高吉によって築かれました。城下町の中心として栄え、江戸時代には諏訪藩の拠点として大切に守られてきました。現在の天守は復元されたものですが、湖を背景にした姿は今でも見応え抜群です。

    桜の時期にはお堀沿いに花が咲き誇り、お城と湖と桜が織りなす風景は格別です。

    諏訪高島城天守閣(外観復元)

    諏訪高島城 隅櫓(外観復元)

    諏訪高島城 冠木門(外観復元)

    三の丸御殿裏門(移築)

    歴代城主一覧

    温泉寺 諏訪氏菩提寺 

    二代藩主の諏訪忠恒は慶安2年(1649)、城下に温泉寺を建立し、菩提寺としました。そして寺の裏山、諏訪湖や北アルプスまで望める眺望の良い場所に墓所を築いています。
    墓所は大きく2段の平場からなり、上段には二代から八代までの7基の藩主墓標(墓石)が並んでいます。中段には側室や子どもの墓標が不規則に造営されています(下段は現在一般墓地となっています)。また、家臣などが献納した石灯籠が各藩主墓の正面に、参道を画するように並び建てられています。
    藩主の墓標はすべて共通した形式で、石造りの大きなものです。方形3段の基壇上に、舟形(無縫塔半裁形)の標身を載せる特異な形式で、高さは約3m、幅は約3.2mあります。二代墓にのみ木造御霊屋が建てられており、他の藩主と区別が図られています。なお、御霊屋は倒壊の恐れがあるため平成19年に解体し、部材を保存しています。そのため、現在は仮覆屋を建てて墓標を保護しています。

    https://www.city.suwa.lg.jp/site/bunkazai/2158.html

    諏訪大社 上社 本宮 (国重文)

    諏訪大社は社殿の四隅に御柱(おんばしら)と呼ぶ大木が建ち幣拝殿や左右片拝殿が横に並び、本殿を欠く等社殿の配置にも独特の形を備えています。中でも本宮は諏訪造りの代表的なもので、建造物も四社の中で一番多く残っています。また神体山を拝するという大きな特徴を持ち、祭祀研究の上からも注目されております。
    境内のほぼ真中に東宝殿、西宝殿と言う二棟の茅葺の建物があります。本宮で最も大切な御社殿で、寅年と申年毎に交互に建替がなされ遷座祭が行われます。軒からはどんなに干天の日でも最低三粒は水滴が落ちるといわれ、七不思議の一つに挙げられ、諏訪大神が水の守護神として広く崇敬される根元にもなっております。
    本宮最古の建物は四脚門で、慶長十三年(1608)に徳川家康が家臣大久保石見守長安に命じ、国家の安泰を祈願して造営寄進したもので、別名を勅使門とも言います。

    https://suwataisha.or.jp/about/miyamori/kamishahonmiya/

    諏訪大社 上社 本宮 幣拝殿(国重文)

    諏訪大社 上社 本宮 四脚門(国重文)

    諏訪大社 上社 本宮 神楽殿、門、勅使殿(すべて国重文)

    信州蕎麦と日本酒

    「十割蕎麦 そばや」で信州蕎麦と長野の地酒・真澄を堪能。 

  • 上田城
    — 真田の知略が息づく城跡

    長野県上田市の中心にある上田城は、戦国武将・真田昌幸が築いた名城です。天守は現存していませんが、石垣や櫓門、堀が残り、訪れる人を戦国時代へと誘います。

    上田城といえば、徳川軍を二度も退けた「上田合戦」で有名。真田の知略と不屈の精神を象徴する場所です。櫓から城下町を眺めれば、かつての戦場を思い描くことができ、歴史ファンなら胸が熱くなります。

    春は千本桜が咲き誇り、秋には紅葉が城跡を彩ります。歴史探訪はもちろん、季節の風景も見どころ。真田の足跡と四季の美しさを一度に味わえる城です。

    2025.4.12

    上田城 南櫓(県宝)、東虎口櫓門(木造復元)、北櫓(県宝)

    上田城大手門、北櫓、南櫓がつななる本丸の入り口。本丸堀沿いの満開に咲き誇る桜。

    本丸櫓門は平成6年に木造復元された。

    上田城 南櫓(県宝)

    南櫓と満開の桜。

    明治維新後、西櫓1基を残しそのほかの櫓・櫓門は取り払われました。城外に移築されていた2基の櫓は後に買い戻され、昭和18年(1943)から24年にかけて現在の南櫓・北櫓として再移築されました。

    上田城 南櫓(県宝)、西櫓(県宝)、尼ケ淵

    上田城南側の崖下には、かつて千曲川の緩やかで深い分流があり、天然の堀となっていました。この場所を「尼ヶ淵」と称したことから、上田城は別名「尼ヶ淵城」とも呼ばれていました

    上田城 西櫓(県宝)

    上田城で江戸時代から現存している唯一の建物です。

    上田城 北櫓(県宝)

    上田城旧藩主邸表門

    上田城跡公園の一角に残る「上田城旧藩主邸表門」は、江戸時代後期に建てられた格式ある門です。上田藩主・松平家の居宅を守る正門として使われ、威厳ある黒塗りの扉と太い柱が、往時の武家屋敷の風格を今に伝えています。

    参照 信州上田観光ガイド https://nagano-ueda.gr.jp/archive/uedajo/about.html

    上田城 歴代城主、藩主一覧